2012-04-27
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困ったときに、周りから手助けが受けられるかどうかは、
その人の周りに対する日頃の接し方で決まります。
日頃積極的に手助けをしている人は、周りから
手助けを受けられる可能性がそれだけ高くなります。
その反対に、何もしていない人は、自分が困ったときに
どこからか救いの手が差し伸べられることはないと、
覚悟しておいたほうがいいでしょう。(略)
一の助けを受けたければ、それこそ相手が苦しいときには、
意識して三のことを与えるように行動するくらいが
ちょうどいいのです。
世の中は、ギブが一でテイクが一というほど甘くはありません。
自分が受けられるテイクは、意識して三をギブし続けているうちに
かろうじて一が得られるような、その程度のものなのです。
そのことを理解して行動しないと、
期待と現実のギャップに苦しめられるだけです。
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2012-04-26
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「不況で嫌になっちゃうよ」ではなく、
「不況が来たときのために自分がいる。
いよいよ自分の出番が来たんだ」
と、言わなくてはならないのです。
いつも泣き言を言っている人には、パワーがありません。
目的をつかんだとしても、
それを引き寄せることができないのです。
景気のいいときには、誰が何をやっても儲かる時代でした。
でも、不況の今は、景気のいい会社と悪い会社がでてきます。
不況は困ったことではありません。
不況だから、あなたの腕が試せるのです。
まさに、神様にあなたの実力を見てもらう絶好のチャンス。
そのくらいの気持ちでいれば、だんだん先が見えてくるものです。
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2012-04-25
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売らんがための商売ではなく、
この味を本当に気に入った人が、
買ってくれればいいというのが、
「小さざ」の経営理念なのです。
華々しさを求めるのではなく、自分流を貫く。
チューリップやダリアのような花ではなく、
レンゲのような花があってもいい。
ひっそりと咲いていても、評価する人は評価してくれる。
小さざはまさにそんな会社なのです。
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2012-04-24
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家庭の主婦も、プロであることが望まれているのです。
これができなければ、家庭円満にはなりません。
外に働きに行くでもなく、家のことをやるでもなく、
子どもの面倒も人に押しつけて、毎日のんべんだらりと
していたのでは、旦那からも、子どもからも、
「いいかげんにしなさい」と言われます。
この世には、いろいろなプロがいます。
それぞれの分野で、いつも、いつも、
「自分はプロなんだ」
という覚悟が試されています。
プロの自覚ができた人だけが、天の助けをもらえます。(略)
「私はプロですから、こんなことは当たり前です」
と言えるようになると、たいがいのことは怖くありません。
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2012-04-23
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リスクを避けるなら、チャンスもない。
あなたの悩みも
「リスクなしでチャンスがほしい」
という勝手な願いが原因ではないだろうか。
もし、リスクがイヤなら、
チャンスが来ないことも甘んじた方がいい。
本当にチャンスをつかみたいなら、
リスクを背負う勇気を持とう。
また、『いつまでもこの厳しい状況が続く』
ような気がして必要以上に暗くなるのは、もうやめよう。
苦しい状況は、いつか必ず終わる。
いつか状況は変化する。
それは信じてよい。
だから、苦しいときこそ、守りに入らず、
思い切った投資をしてみよう。
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2012-04-20
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「上司がこうしてくれれば…」
「部下がこう動いてくれれば全てはうまくいくのに…」
「なんであいつはそんなふうに考えるんだ、
こう考えるのが当たり前じゃないか」
あなたにとっては、「自分の常識が世間の常識」である。
それ以外の考えを持つ人は信じられない、といきまく。
自分の考えは当たり前で、他人の考えはおかしいと思う。
他人とぶつかって、どちらかが考えを変えなければならないと
すれば当然、相手の方が考えを変えるべきに決まっている、
と考えるのである。
あなたの考えることを上司が正しく理解してくれ、
部下はあなたの思うとおりに動いてくれ、
ワケのわからないことを言い出す人間がひとりもいなければ、
世の中はこんなに楽なことはなく、幸せだ。
だからあなたは、ついつい他人が変わってくれることを期待する。
他人が変わってくれれば楽だ。だから、
「自分がやりかたを変えてみる」という現実的解決法に向かって
動き出すのを、いつまでも先延ばしにしてしまう。
しかし、よく考えてみてほしい。
あなたが自分のやりかたをなかなか変えられないように、
他人だって、自分のやりかたを変えるのは至難の業なのである。
彼も、彼女も、今までそのやりかたでずっと生きてきたのだ。
自分ができないことを他人に強要するのは
酷というものではないか。
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2012-04-19
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「食事をしながら携帯メールを打つ」
「子どもの相手をしながら仕事の資料を読む」
「ゲームをしながら会話をする」
どれも、日常のありふれた風景です。
しかし、こういう時間の使い方は、
「時間を上手に使っている」のではなく、
「忙しさを倍増させている」ようにも思えるのです。(略)
いつもセカセカしたした、忙しい気分は、もしかしたら、
こんな暮らし方に由来しているのかもしれません。
何かをしながら何かをすることによる、不完全燃焼感。
右目と左目が別の方向を見ているような、落ち着きのなさ。
たまには、食事のときは食事だけ、
子どもの相手をするときは、子どもの相手だけ、
会話をするときは会話だけに集中してみませんか。
「何かをしながら」でなく、自分や相手に全神経を注ぐことは、
自分や相手を尊重していることの表明です。
そんなに長時間でなくてもいいのです。
自分だけ、相手だけに気持ちを向けることで、
自分の身体や心のこと、相手の気持ちの細やかな変化、
今まで気にもとめていなかったことにが、
もっとはっきり見えてくるかもしれません。
もっと大切なことは、あなたのその変化が、
自分自身や相手に伝わることなのかもしれません。
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2012-04-18
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「忙しい」=「充実」と思われがちで、
実際そういうこともありますが、
多くは忙しさと充実は必ずしもイコールになりません。
毎日セカセカと忙しがっていると、
なんとなく充実した日々を送っているように錯覚しがちだけど、
その割にいつも心のどこかに穴があいていて、
大切な何かが漏れ出しているような気がする。
それは、忙しさのあまり、毎日の暮らしが
おろそかになっているからではないでしょうか。
スカスカな毎日は、漠然としたあせりを生みます。
自分の人生が自分のもののような気がしない、
今やっていることに何の意味があるのかわからなくなる…
忙しさは、心の危機につながることさえあるのです。
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2012-04-17
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青年期と成人初期をうまく乗り切ることができたとしても、
その後の人生や職業を、衝撃も動揺もなく、
静かに過ごせるとは限らない。
私たち自身も変化するし、
優先順位や価値観も移り変わっていく。
まず自信が芽生え、次に疑いの中で
ボロボロになってしまうが、また再び自信が甦ってくる。
というぐあいに人間関係も展開していく。
職業や生き方もまた、静止して動きがなくなったり、
別の新しい意味を帯びてきたりする。
入り組んだ人生の周期(サイクル)を織りなすなかで、
私たちは成長していなければ滞っており、
築いていなければ衰えている。
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2012-04-16
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人間には
だれにも言えない
秘密があるものだ
だから苦しい
話すことは放つといって、
人は何かを思いきりしゃべると
開放感を味わうものだ。
しかし、話せないことがある。
だからこそ苦悩する。
生きることは話すことに
繋がっているからだ。
心にたまっていることを発散できない苦しみは、
だれでも持っている。(略)
自分の言えない秘密には耐える以外にない。
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2012-04-13
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「頭がいい」と言われる人やエリートの中には、
自分の説や考え方にこだわって、
少しも人の意見を聞こうとしない、
人を許そうとしない人がいます。
本当に頭がいい人というのは、
小さく固まって「自分だけが正しい」」としてしまう
思い上がった人をいうのでは無いはずです。
人を許せないのは、人間が小さく器が小さいからです。
この世の中、自分が正しい、相手が悪いと
さばけるほど、単純ではありません。
世の中の善悪というのは、
自分にとって都合がいいか悪いかだけのことです。
立場を変えて相手の立場に立ってみると、
180度変わることもあります。
本当に頭がいい人とは、
相手の立場に立って考えることができる
心の豊かな持ち主をいうのだと思います。
本当に人を愛したり、尊重したりする気持ちがあれば、
人の意見にも耳を傾け、
「いろいろ心配してくれてありがとう。
私も考え直してみよう」と言えるはずです。
才能があっても、才能に愛がこもっていなければ、
人を生かすことはできません。
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2012-04-12
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人間なら、誰もが大なり小なりいやらしい部分を
持っているものだし、ましてや、
それをなくすことなんて誰にもできやしない。
それならば、そういった気になる部分が
少しでも表にでないように収めておくようにする。
収めた上でさらに、少しでも美しい動き、
思考となるように修正していく、それが大切なのだ。
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2012-04-11
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プロ野球で、あと一人抑えればノーヒットノーラン達成と
いうときに相手バッターに打たれてしまい、さらにその後、
逆転までされてしまった投手がいた。
サッカーでは、残り時間わずか5分の間に2点差、3点差を
ひっくり返され逆転負けすることがあるし、格闘技でもラウンド
終了間際に逆転の一発を食らいKOされてしまうことがある。
人は、どうしても最後の最後でぶれてしまう。
勝利を確信したり、守りに入ったりして、
それまで一貫して保ってきた姿勢を崩してしまうのだ。
でも、これは人間なら当たり前のことだ。
ぶれるから人間なのだ。
誰にだって弱さがある。
どんなに強そうに見える人でも、
心に中に弱さというものは、必ずある。
この弱さがぶれを生む。
人間にはぶれがあるから、いろいろな場面で
幾多のドラマが生まれるのだ。
だから、そのぶれが原因で負けてしまったとしても、
その程度のことで人を責めてはいけない。
「人間なら当たり前。この負けを次に生かそう」、
そう思いながら、勝負を続けること。
むしろこの方がずっと大切なことなのだ。
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2012-04-10
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Mさんが、フィレンツェでの経験を話した。
労働許可証の再発行に行った。
一度目は長時間待たされた。
挙げ句に、「書類不足」で追い返された。
なら、提出時に指摘してくれたら…。
でも、ここはイタリアとあきらめた。
二度目にでかけてやっと許可証を受け取れた。
二時半に行って六時ころまでかかった。
でも、Mさんの話は悪口で終わらなかった。
書類を渡しながら係の女性が言った。
さんざん待たせた中年の女性だ。
「あら、そのネックレスかわいいわね」
不思議だ。
このひと言で許せる気になった、という。
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2012-04-09
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もし私たちの人生が環境によって左右されるものである
とするならば、それほど面白みのない人生はないだろう。
それでは、貧しい家に生まれれば一生貧しいだけ、
不況になれば会社も駄目になるだけになってしまう。
しかし私たちは「思い」という、
環境すらコントロールしてしまう力を持っている。
つまり、自分の人生をどのような「思い」を持つのかによって、
自由にコントロールすることができるのである。(略)
大切なことは、自分がどのような「思い」を持って、
行動しているかということなのだ。
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2012-04-06
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何かをしよう
みんなの人のためになる
何かをしよう
よく考えたら自分の身体に合った
何かがある筈だ
弱い人には弱いなりに
老いた人には老いた人なりに
何かがある筈だ
生かされて生きているご恩返しに
小さいことでもいい
自分にできるものをさがして
何かをしよう
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2012-04-05
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《まねがつくり出す、人の心を読み取る能力》
「まね」というのは、
脳の発達においてとても大切な訓練なのです。
子供は人まねを何度も何度も繰り返すことで、
前頭前野を発達させていきます。
そして、この他人の「まね」をするという行為は、
他者の心を理解すると同時に、他者と自分の違いを
脳にインプットしていく行為でもあるのです。
というのも、人のまねをすることで、
自分はこれができてこれができない、
自分はこう思うけど人はこう思う、
という自分と他者の違いを認識することになるからです。
「自分」が確立されるのと同時に
「他者を理解する脳」がつくられます。
子供の脳は、一つの行動を通して、
同時にいくつものことを学んでいるのですが、
いくつもの能力が同時に育っていくからこそ、
人は成長したときに、言葉でコミュニケーションをとりながら、
同時に相手の行動を見て、その人の本当の「心」を
読み取るといった複雑なことができるようになるのです。
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2012-04-03
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「癒し」ということを考えるうえで、
とても興味深い実験結果があります。
そのデータが現れたのは「タッピングタッチ」をしたときの、
脳内セロトニン濃度の増減を調べていたときでした。
タッピングタッチというのは、二人一組になり、
一人がもう一人の背中を一秒間に一回程度のテンポで、
トントンと軽くタッチするというものです。
私は、タッピングタッチをされた人のセロトニン濃度が
上がることを予想していたのですが、結果は、
された人も、やった人も、両方のセロトニン濃度が
上昇するという意外なものでした。
これは、他者のためにすることが、実は自分をも
癒しているということを意味しています。(略)
他人のために何かをするということは、
実は、自分を最も幸せにする方法だったのです。
ですから、幸福感を感じられないとあがいている人たちが、
一番簡単に幸せになる方法は、
誰かを幸せにしてあげることなのです。
昔から「情けは人のためならず」といいますが、
それは単に教訓的な意味ではなく、本当に私たちの脳が
そういう仕組みになっていたのです。
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2012-04-02
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私たちはいつの日にか考えることばかりが頭をよぎり、
優先され、心で感じることが疎くなりました。
子どものころは心で感じ、心の目で善し悪しがわかり、
加減がわかりました。
いつの間にか愛もまた思考の中でつなぎ合わされて
組み立てているようなぎこちなさを感じてなりません。
悲しいとき、嬉しいとき、虚しいとき、誰かがいてくれると、
心が安まり、小さな安心感が心の中に生まれ、
ホッとしてその淋しさや悲しさと一緒にいられます。
側にいる、一緒にいる、これだけで充分なのでしょう。
心満たされ、ほのぼのとした幸せ感が
愛なのかなと思えてなりません。
愛はきっと心で育まれ、豊かに膨らみ、
相手に向けられるものではと感じます。
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