2007-04-30
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自分が我慢して「傷つけられた」と思っていれば、
どこかで仕返しをしたくなります。
その仕返しは、自分を傷つけたその当人でない
相手に向けられることもしばしばです。(略)
誰かについ感情をぶつけてしまうとき、
実際にはその当人に腹を立てているというよりは、
自分のため込んだ我慢を、ぶつけやすい相手に
ぶつけていることが少なくないのです。
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2007-04-29
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元気の出る話を聞くのは楽しい。
しかし、それだけではつかのまのカラ元気である。
自分の内なるなにかが変わらなくてはいけない。
他人から励まされたり、刺激を受けたりする機会を
ずっと待ち続けて、結局は無為の人生を
送ってしまった人々の例を私は数多く見ている。
誰もあなたのやる気を高めてはくれない。
自分で自分にむち打って、
意欲をかきたてていかなくてはならないのである。
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2007-04-28
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みんながみんな
「私が先に愛されたら、愛を返してあげる」
と思っていたら…
みんながみんな指をくわえて「愛を待っているだけの人」
になってしまうじゃないですか。
現実にこの構図はずいぶんまん延しています。
とくに夫婦の世界には大まん延。
みんな相手からの愛ばかり求めて、
自分が先に愛を差し出そうとはしないのです。
「すごいケチですね」(略)
もちろん、夫婦以外の関係においても
「愛においてケチだな」と感じさせる人が、
本当に多いなと思っています。
そんなんじゃ悲しく切なくなるばかりなのに、
なぜ先に自分から差し出そうと思わないのか。
先に出したほうがずっと心地よい展開になり、
結局はより多く豊かな愛に恵まれることになるのにな、
そう思っています。
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2007-04-27
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松岡修造さんは、テニスを始めた少年時代を、
こんなふうに回想している。
「とにかく、負けず嫌いでね。ヘタなくせに負けず嫌い。
だから、試合をやっていて劣勢になると、わざと
投げやりなプレーをしはじめるんです。
これはいよいよ負け、が時間の問題になると、
あからさまにやる気なさそうにプレーする。
“オレ、本気出せばこんなものじゃないんだけどさ、
今日はなんか気分が乗らないんだよね”
というポーズをとるんです。
負けを認めたくないがためにね。
負けても、本気じゃないから参考にならないという
エクスキューズを用意するわけです」(略)
ビジネスの世界でもありそうだ。
自分の力不足は棚に上げて、なんやかやと屁理屈をこね、
責任回避や言い訳に終始する。
ことの本質に対峙しない。
それじゃ、なにも解決しないだろう。
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2007-04-26
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人と違うことが個性ではない。
「個性」と言うと「何か人と違ったことをするのが個性だ」
というふうに思う人がいるんですが、そうではありません。
みんなが静かにしているときに立ち上がって叫んだら、
その人は個性的であるとか、そういうふうに
ちょっと思い違いをしている人があります。
ところがそんなことはなくて、みんなと同じでも
「個性的」でありうるわけです。
これは、個性ですからその人によって違うわけですけれど、
非常に簡単な言い方をすると、
わりあいにみんなと合うタイプの個性を持っている人と、
みんなと合わない個性をもっている人とがあるんじゃないか。
それから、その時代に合う個性をもっている人と、
時代に合わない個性をもっている人とがあるんじゃないか、
というふうに私は思っています。(略)
この時代に、環境に、周囲に合わせながら、
なおかつ出てくるものが個性だと思いますね。(略)
個性というのは他人とどう違うかということではなくて、
自分のものですから、自分がその上に
どっしりと立っておられるかどうかです。
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2007-04-25
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僕はこういう仕事につく前に、自分の分析というのを
5年くらい受けています。5年間やって人間がどのくらい
変わるかということを自分でよく知っているわけです。
あんまり変わらないんですよね。やっぱり(笑)
しかし、あんまり変わらないけれど、どこか変わってくる。
その、どこがどのぐらい変わって、それがどんな意味をもつかと
いうことを、自分で自覚してないといけないと思います。
そして「あんまり変わらない」と言っていますけど、
その「ちょっと変わる」ということがどんなに偉大なことか。
人間がちょっとでも変わるいうのは、すごいことなんです。
もう一つだけ言わせてもらうと、人間が180度変わるのは
大したことはありません。
180度というのはわりあい変わりやすいんです。
パッと180度変わります。それで、ちょっとしたら
パッと元に返りますからね(笑)。
けれども、ちょっと変わるというのはなかなか大変なことです。
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2007-04-24
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「途中で絶対にあきらめてはいけない」と
私が力説するのにそれなりの理由がある。
なによりもまず、人は、勝ちぐせと同じように
負けぐせもすぐに身につけてしまうからだ。
一度でも志を半ばで放りなげるようなまねをすれば、
次の機会にはもっと簡単にすべてをあきらめ、
さらにその次にはもっとあっさり白旗をかかげてしまう。
そして、じきに、断念がその人のライフスタイルと
化していくのだ。(略)
もしも努力を途中で放棄すれば、夢を実現する
チャンスは失われてしまう。
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2007-04-23
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失敗を必要以上に恐れている人は、心のどこかで
「失敗したら取り返しがつかない」と考えている。
ただ、もし本当に「取り返しがつかない」のだとしたら、
それは準備段階が間違っているのではないだろうか。
たとえば、魚を釣るときにも竿1本、糸も一本、
エサもミミズ一匹、というなら、糸が切れたら
「取り返しがつかない」、あきらめて、
とっとと家路につくしかない。
しかし、予備の竿、予備の糸、豊富なエサを
持ってきていれば、糸が切れようと
エサだけとって逃げられようと大丈夫だ。
いくらだって取り返しがきく。
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2007-04-22
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知らず知らず「ああ、疲れた」とか
「まいっちゃったな、やってられないな」
などとつぶやいているあなたがいたら
「そうだね、疲れたね」とか
「本当だね、やってられないね」
と、語りかけたあげてください。
そして、
「とりあえず、少し休もうか。気分転換しようね」
とも付け加えてあげてください。
不思議に思うかもしれませんが、自分の心が発する
SOSに自分で応じてあげることには、
思いのほか効果があります。
他の誰かに感受してもらうよりも、むしろずっと
助けになる場合さえ少なくありません。
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2007-04-21
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初めから、人間関係の機微に通じた人、
一度も失敗を犯さない人間などいない。
大切なのは、あなたが今、
どう対処しているかだけでなく、
これからどう行動するかである。
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2007-04-20
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例えば、「絶対に正直でなければならない」と
強く思っている人は、自分がウソをついたとき、
「ウソをつくことは罪だ」と思う分だけ、自責の念にかられます。
同じように相手がウソをついたときは、自分が正直な分だけ、
相手に正直さを要求して相手を責めます。
でも、「ウソも方便だ」と考えて、多少のウソには寛容な人は、
相手にも「絶対にウソをついてはならない」というような
態度はとりません。
厳格な人は、その分だけ、他人がルーズなのが許せません。
厳格さにこだわるゆえに、「キチンとしているか、否か」
に焦点を当て、そうでない人を責めます。(略)
つまり、「自分を責めること」と「相手を責めること」
とは表裏一体の関係なのです。(略)
自分自身を許すことができれば、相手を許すことができます。
自分自身に厳しい要求をしなければ、相手に厳しい要求を
突きつけて責めることもありません。
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2007-04-19
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警視庁が、動機や経緯のよくわからない「突発型」の
凶悪事件を起こした22件、25人の聞き取り調査をした。
すると、サバイバルナイフなどの刃物や凶器を
持ち歩いていたり、収集していた者が11人いた。
とくに刃物を持ち歩いていた7人は、全員が事件を起こしたが、
そのうちの6人までが、友人や家族に犯行をほのめかしたり、
日記などに犯行を示唆をすることばを書いていた。
黒板に「人を殺す」と書いたり、犯行計画を記したメモを
もっていた少年もいた。こうした前兆と見られる行動を
していたのは、全体では19件におよんだ。
つまり、突発的とみられた凶暴事件22件中19件、
86%は、実は突発型ではなかったのである。
また25人中15人、60%に、いじめ、家庭内暴力、
過度の体罰被害があった。
とくにいじめは13人、52%が経験していた。
不登校、孤立など対人関係の不適合のケースは16人だった。
暴力行為を繰り返していた者もいる。
動物の虐待、自傷行為をおこなった者もいた。
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2007-04-18
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相手を今日中に絶対に説得しなければならない…
不用意な発言で傷付けてしまった相手の心をやわらげたい…
「うるさい相手」を黙らせたい…
私たちの毎日は、このような“小さなピンチ”の
連続だと言っていい。
そして、このピンチを脱出できるかどうかは、
ほとんどの場合、あなたが何を話し、
どんな言葉を使うかによって決まってしまうのだ。
すんなりと切り抜けられることもあるだろうし、
逆に言葉の対応のまずさが、あなたの人間関係、仕事にとって、
“とんでもない致命傷”になってしまうこともある。
極端な言い方をすれば、「人づきあいが上手な人」
「仕事をそつなくこなす人」「異性から好かれる人」
というのは、このような“ピンチ”に立たされたときに、
「言葉の使い方が上手な人」である、と言えるかもしれない。
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2007-04-17
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私たちの多くが、何かが起こるのを待っている。
人生の大半を待つことで過ごしている。
この“待ち”の姿勢が奇妙に
私たちを縛っているのだ。
兆しを待っている。
呼ばれるのを待っている。
すべてが申し分なく整うまで、何も努力をしない。
自分の才能を100%開放し、用いることのできる
偉大なチャンスをただひたすら待っている。
その本質からいっても、“待つ”生き方では、
皮肉でがっかりするような人生になってしまう。
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2007-04-16
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昔のほうが勇気があって、
行動的で、積極的ではなかったかしら?
こう思い返してみることは大切だ。
そうすればこう言うのはずっとたやすくなるだろう。
「さあ、やってみよう。
これだってあれだって、
昔はできたんだもの。
人生経験が浅かったのに。
だから、いまならずっとちゃんとやれるはず。
もう逃げたりしない」
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2007-04-15
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いまの自分と他人を比較すると、不機嫌になれます。
特に、その人が幸福そうだと、確立は高い。
他人との比較だけでなく、今の自分と
あるべき理想の自分を比較しても、不機嫌になれます。
いまの自分と理想の自分の間には、
常に、開きがありますから。
もし、比較さえしなかったら、わたしたちは、
いまの自分に十分満足できるでしょう。
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2007-04-14
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励ましというのは、必ずしも
「がんばりなさい、しっかりしなさい」
という言葉からのみ得られるものではなくて、
「私はあなたを信じている」
という信頼からも生まれるものなのだ。
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2007-04-13
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コミュニケーションはキャッチボール。
両者が「話す」「聞く」の両方を行うのが
コミュニケーションです。
たとえ仕事上の命令であっても、
この原則が守られないときトラブルが生じます。
コミュニケーションはドッジボールではない。
相手が受けとりやすいボールを投げること。
とても相手が受け取れないようなボールを投げておきながら、
相手が自分の話を聞いてくれないと嘆いている人がいる。
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2007-04-12
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本日、大リーグで「イチロー選手VS松坂投手」の試合があり、
この2人のファンとして(複雑な気持ちだけど)、同じ本に、
2人のすごいエピソードが載っていたので紹介します。
今日は、私の感想はなしです。
《イチロー選手》将来を見据えて、現時点の課題を明確にする
小学生のときに書いた作文を少し紹介してみよう。
「ぼくの夢は一流のプロ野球選手になることで、そのためには
中・高の全国大会で活躍しなくてはいけません。そのために
練習が必要です。その練習には自信があります。」
という文ではじまる。
彼は「夢」と作文では書いているが、とても強い意志を持った
目標ととらえることができる。作文の途中には、
「これほど練習をやっているんだから、かならずプロ野球選手
になれると思います」という文もあり、
そこには確信のようなものが感じられる。
また、プロ野球選手になっている自分の姿がリアルに
イメージ出来ているからこそ、入団時に
「年俸は一億円以上が目標です」と具体的な目標がいえるのだ。
その目標を達成するためのモチベーションとして、彼は、
「ぼくが一流選手になったら、お世話になった人に
招待状を配って応援してもらいます」と書いている。(略)
小学生でありながら、これだけの明確な目標設定や課題の
明確化があったからこそ、現在のイチロー選手があると
いっても過言ではないだろう。
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2007-04-11
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いまは、自分という畑を耕すことなく、
小手先のスキルや手っ取り早い方法だけで、
とりあえず作物を実らせることばかりが優先される。
それでまあ1,2回はうまくいくかもしれないが、
その1,2回のために、かぼそかった土壌がさらに
枯れてしまっては、そこから先の収穫はおぼつかない。
それよりも、丹念に肥料をまき、
土を掘り返して畑を耕せば、
最初は手間がかかっても、連作が可能になる。
自分という畑を耕さなければ作物は育たない。
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2007-04-10
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傷への確実な解毒剤は、その人との関係が
あなたにとって、とても大事だと知らせることです。
その人があなたが自分のことを
ほんとうに思ってくれていると納得したら、
間もなく信頼は修復されます。
少しの誤解や小さな失敗はあっても、壊れた信頼の
修復に長くはかからないでしょう。
とはいっても、問題が長い間修復されないままだったら、
その人にあなたがほんとうに思っていると納得させるのは、
そうとうな仕事かもしれません。
だからこそ、壊れた信頼は、いつでも、
壊れたらすぐに癒すのが最善なのです。(略)
信頼は、愛と同じく、匂いをかぐことも、さわることも
味わうこともできませんが、でも重大な力があります。
目には見えませんが、心にははっきり見えます。
信頼なしには、人間関係で成功することはできません。
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2007-04-09
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人と関わる方法は無限大にある。
ひとつかふたつの方法が
うまくいかないからといって、
あきらめるな。
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2007-04-08
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私たちは、愛する者を持っていない淋しさも
味わいますが、反対に、
愛する者をもってしまったがゆえに
味わわねばならない淋しさ、孤独もあるのです。
それに耐えるのも愛の1つの姿だと
知りましょう。
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2007-04-07
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ベトナム戦争直後のことだ。ある時、私の友人が
ものすごいどしゃ降りの最中に、アリゾナの
ガソリンスタンドに立ち寄った。
出てきた従業員はガソリンを満タンにする間中
口笛を吹いていかにも楽しげだった。その従業員の
ユニフォームから水がしたたり落ちているのを見た友人は、
こんな大雨の中にひっぱり出してしまって申し訳ないとわびた。
するとその従業員は、にっこりしながらこう答えた。
「これが私の仕事ですから」彼は続けた。
「私はね、ベトナムの塹壕の中でじっと腹這いになって
いた時に、誓ったんですよ。
もし生きて無事に家に帰れたら、どんなに嬉しいことか。
そうしたもう二度とどんな目に
あったって決して不平をもらすまいと、とね。
だから、私には文句というものがないんですよ」
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2007-04-06
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多くの人は、
何をすべきはわかっているが、
ほとんどの人は、
わかっていることをしないものです。
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2007-04-05
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ある夏の日に母親がキイチゴを
少しばかり摘んでくるように送り出した。
私は反抗してわざとのろのろと摘み始めた。
カゴはなかなかいっぱいにならなかった。
その時に新しいアイディアがひらめいた。
キイチゴを両手でもちきれないほど摘んで、
母親を驚かしてやったらどんなに面白いだろう…
私は家族中をあっといわせてやろうという思いで、
夢中になってキイチゴを摘んだ。
家族もそのことはずっと覚えていたほどである。
取り組む姿勢を変えることで、
どんな情況も変えられるのだ。
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2007-04-04
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言葉遣いなんてどうでもいいじゃないか。
心がきれいなら、別に汚い言葉を使ってもいいじゃないか、
そう言う人もいます。
でも、私は違うと思います。
やはり美しい言葉の中には
美しい心が宿っているのではないでしょうか。
少々無理をしてでも、美しい言葉を心がけることで、
人の心は美しくなっていくのではないでしょうか。
何も上品ぶった貴族のような言葉を使う必要などありません。
とても当たり前の言葉で十分です。ただ、相手を傷つけたり、
回りの人を不快にさせたりするような言葉は使わない。
そういう心遣いをするだけで、いい人間関係は生まれてくる。
不要な争いごとは起こさなくても済むと思うのです。
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2007-04-03
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人はみな、できれば平穏無事に暮らしたいと願っている。
面倒を避けたい、悪いことは起こってほしくない、
苦しいこともしたくない、危険な思いもしたくない、
といった感じだ。
だったら鳥カゴの中の鳥を思い出していただきたい。
鳥カゴで飼われている鳥は、とりあえず「平穏無事」だ。
襲ってくる外敵もいないし、エサの心配をする必要もない。
そこにじっとしていれば、
フンまで飼い主が処分してくれる。
それでもあなたは、彼らをみれば
「かわいそうに。大空を自由に飛び回りたいだろうな」
と思うのではないだろうか。
そう、本当の平穏無事なんて退屈でちっとも面白くない。
ピンチがあり、チャンスがあり、予想外の出来事が
次々にやってくるからこそ、人生は面白いのだ。
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2007-04-02
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私たちは、人生でほんとうにしたいと思っていて、
できるかもしれないことを、
できないことにしてしまう理由をいっぱい持っています。
借金、子ども、ストレスだらけの仕事…
リストには果てしがありません。
でも、意思のあるところ道はあるのです。
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2007-04-01
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幸せのサイズというものは、自分で築き、
自分自身で決めていくものだと思います。
サイズを大きくしたいのなら努力をすればいいし、
サイズを縮小したいのならそういう方向にもっていけばいい。
そして自分にピッタリと合った幸せのサイズを探せばいい。
無理をして他人のサイズを真似たところで、
ほんとうの幸福感は味わえない。
どこか居心地の悪さだけが残ってしまう。
幸せのサイズは、人それぞれ違うもの。
与えられたサイズがあるような気がします。
そしてそれは、決して不平等なことではありません。
なぜなら、人間の幸福には、
不平等などというものがないと思うからです。
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